◆ 錦鯉史 ◆

錦鯉の紹介



右写真は浮世絵に見る鯉、「林泉首夏のつどい」豊国筆。

鯉の飼育の始まり
 黒木健夫著「錦鯉百科」の錦鯉の歴史の中で・・・
 鯉は人類が飼育を始めた魚類としてはもっとも古く、その原産地は、中央アジアのペルシア地方といわれている。そして、民族の移動とともに諸地方にも移植され、今日ではその分布は全世界に及んでいる。
 鯉を飼育した記録のもっとも古いものは中国で、紀元前470年ころに著わされた陶朱公の「養魚経」という本に詳しく飼育方法がしるされている。
 わが国では、新石器時代(紀元前1300~2000年)の遺跡から鯉の骨が発見されている。また、「常陸風土」(713年)に鯉がしるされている。さらに、「日本書記」(720年)には景行天皇の4年に、美濃国泳宮で池に鯉を放ってご覧になったとしるされている。
 鯉は食用にするとともに、観賞にする風習もおこったことが考えられる。ことにわが国では、平安時代から貴族の邸宅の建築様式として盛んになった寝殿造りには、泉池を配した林泉庭園が造られ、この泉池で、鯉が飼育された。このような風習から、古来、わが国での鯉の観賞は、林泉の多い京都が中心であった。
 ・・・と書かれている。
 鯉は大変飼いやすく、人にも馴れやすい魚である。昔の人々がこれらを愛育し、黒鯉の中に自然発生した変わり鯉や青鯉、緋鯉、白鯉、浅黄真鯉など珍重したのではないかということは想像にかたくない。
 中国265~316年の晉崔豹選古今注に鯉の品種として赤驥、青馬、玄駒、白驤、黄雉が記されている、これは赤、青、黒、白、黄の体色をあらわしたもである。わが国でも1792年の文献に琵琶湖には赤、黄、黄赤、白などの体色の鯉が生息していたという記録がある。
 錦鯉発祥の地は新潟県山古志郷となっている。この地の言い伝えに、天明の昔(1780年代)、大干ばつが続いて大変な水飢饉となり、どの家の堤も枯れてしまい、鯉の置き場に困った村人は東山村塩谷の仙竜神社境内の池や東竹沢村小松倉の十二山神付近の池に放して、干ばつから救ったと。片岡正脩の「錦鯉談義」に、これらの池に奉納し再び捕らえることのできないことを知りつつわざわざ運んだことから、この地では愛育に終始していたのではないかと述べている。
 「堤」は耕地の乏しいこの郷において、山の上部をも開いて耕地とするための用水池であった。また、ここは鯉の飼育場所ともなった。鯉は食用目的と一部は中から出た変わり鯉を眺めたり、自慢したりと観賞目的で飼育され、貧しい山間農民の数少ない楽しみであった。
 山古志郷の隣り上田郷は水にめぐまれた地域で早くから養鯉を行い、長い年月をかけ川鯉の浅黄真鯉-紺青浅黄を選択淘汰し優秀な鳴海浅黄を創り出した。この浅黄が山間部の堤で飼育されることにより浅黄地の白色化が進み、白地に緋の斑文の鯉が生まれたと考えられる。この地の人々が浅黄に着目したことと、上田郷の浅黄の改良に良い風土と浅黄地を白色化する山古志郷の風土が隣接することで紅白が生まれ、この地が錦鯉の発祥地となったのではないだろうか。
 越田秀包の「農村の副業的養鯉法」には、文化、文政(1804-1829年)には、緋鯉と白鯉の交配によってできた白色素地の腹部に緋の斑文のあるものあや白鯉の鰓ぶたのみに緋の斑文があるものがいたと述べている。
 ※ 上田郷は、今の新潟県南魚沼郡一帯を古来上田郷と総称してきた、塩沢町、六日町、大和町などが含まれる。

浅黄から紅白へ
 片岡正脩の「錦鯉談義」には、昭和十七年に渋沢敬三が日本漁政史の資料集めに東山村で、近郷のその道のベテランを集め、色鯉研究会を開いた。ここで、多くの人々は紅白は純白(白鯉)と緋鯉の交配によってできたと主張したが、片岡は鳴海浅黄を永年費やして改良したものだと主張した。 この研究会で、最年長者の竹沢村の林蔵老人が「明治の初めにこの郷にいた鯉は主として浅黄と紅白で、浅黄はよいものが居ったが紅白はまだ背部が一面赤くて下腹部だけが白い程度のものや頭部だけ赤い斑のあるものなど簡単な模様ものばかりで、腹緋のあるものが多かった。」と語ったことが、浅黄説を裏付け、彼の研究成果が今日の錦鯉交配図をつくった。

明治~昭和初期
 江戸時代後期に、この山古志郷ではすでに白地に緋模様のあるものや浅黄が愛育されていた。この白地に緋模様の鯉は、明治時代に質の改良が進み、特に東山村蘭木の廣井国蔵の作出した「五助更紗」はこのちで多くの優良品種を生み出す元となった。
(片岡正脩「錦鯉談義」よりの抜粋)
 明治のはじめ、錦鯉は農家のつれづれの伴侶に過ぎなかったが、世の泰平が続き、娯楽への要求が高まるにつれて、商才に長けたものが流行をあおり色鯉の売買、交換が流行し高値をよんだ。このことが品種改良に拍車をかけた。この鹿鳴館時代、色鯉に限らず闘鶏、闘犬やオモト、コウジ(観葉植物)などの流行は、国を挙げての風潮であった。これに対し、政府は国民の勤倹を促す策をとり、色鯉は粛正のやり玉に上げられ衰退することとなる。
 この間にあって、東山村、竹沢村の指導者は、錦鯉の産業化を図って貧弱な山間農家の経済に資したいと画策はしたが、永く機会がこなかった。たまたま、大正三年の万国博覧会が東京上野で開かれると聞き、東山村長平澤彦三郎が中心となり、竹沢村を含め60名の有志で「模様鯉出品組合」を結成し、当地の一流品23尾の出品を決めた。博覧会への出品は好評を得て、また、皇太子廸宮新王に献上がゆるされた。
この努力は、翌秋から京都の金魚商の児玉殖市氏らの来訪となり、沢山の錦鯉が全国に移出される端緒を作った。大正五年、新潟県水産技師阿部圭が色鯉の改良指導に竹沢村に入り、交雑による新品種作出の手法を講和指導した。これは、大正七年、星野栄三郎が大正三色を、昭和二年には竹沢村の星野重吉が昭和三色を創出する成果となった。 昭和七~九年にはアメリカに当歳鯉30,000尾位が輸出され、昭和十三年にはサンフランシスコの築港記念万国博覧会に出品されて、アメリカ人に好評を博したが、第二次世界大戦となり戦時下、錦鯉は排斥され大きな打撃をうけた。

錦鯉の名称の由来
 錦鯉(nishikigoi)は今日、観賞用の鯉の総称となっている。明治から大正の中頃までは「模様鯉」「模様もの」と呼ばれていたが、大正博覧会の時、「越後の変わり鯉」の名で紹介されたのが縁となり、京阪地方に大量に移出され、東京地方にも販路がひらかれた。しかし、「越後の変わり鯉」では商品名として長すぎるということで、いつからともなく「色鯉」と称せられるようになった。しかし、昭和10年に山古志郷で東山農会養鯉部を結成したさい、「模様鯉」では過去のものだし、「色鯉」では、「色恋」と同音で、どうも面白くないということで、当時東京帝国大学の教授田中茂穂が魚類分類学で、はじめて観賞用の鯉に「Flower Carp」という名称と用いた。そこで、「花鯉」という名称を使うことにした。以来、東山村では「花鯉展覧会」と銘打って昭和20年まで続けたが、一般化されなかった。昭和21年から30年までは新潟の養殖組合の品評会では「色鯉」の名称で品評会を開催している。
 「錦鯉」の名付け親は、大正時代に山古志郷の鯉の品種改良を熱心に指導した、新潟県庁水産主任官の阿部圭とされている。阿部氏が大正7年、竹沢村で三色(現在の大正三色)を見て「これはまさしく錦鯉だ!」と感歎したの始まる。この「錦鯉」の名称を観賞用の鯉の総称として用い、宣伝したのは、日本橋高島屋百貨店の屋上に観賞魚の売店を経営したいた井上菊雄で、昭和15~16年頃には県外の需要地ではこの名称が定まり、今日に至る。
 戦後、昭和22年に、輸出復興をめざし、錦鯉を海外に紹介するにあたり、新潟県庁水産主任官天野政之が「Fancy Carp」銘々した。しかし、いつのころからか「Nishikigoi」の名称が海外でも定着し、品種名についてもそのまま日本語が使われている。

戦後~

続き、ただ今制作中 1996.08.16